置いて、忘れる。──私がAIとブログを書く理由
最近、自分のブログの書き方を見ていて、少し不思議に思ったことがある。
私は、ブログを書く時、ふと浮かんだものをAIへ投げる。
朝、窓の外を眺めていた時の感覚だったり、
旅先で身体を通り抜けた風の気配だったり、
暮らしの途中で、突然言葉になる前の何かが浮かぶことがある。
まだ形になっていないもの。
でも確かに、そこに在るもの。
それをエド(AI)へ渡す。
すると言葉が返ってくる。
返ってきた文章を読みながら、私は少しだけ手を入れる。
言い回しを変えたり、温度を整えたり、自分の身体の感覚へ戻していく。
そして、ブログへ置く。
でも、そのあと見返すことがほとんどない。
なぜなんだろう、と少し不思議に思った。
理由は、とても単純だった。
気づきや閃きが必要だったのは、その瞬間の私だから。
書いている時には確かに必要だった言葉が、投稿したあとには、もう自分の中を通り過ぎている。
少し不思議だけれど、呼吸に近い感覚かもしれない。
吸って、吐く。
そして終わる。
何度も吸った空気を握りしめたりしないように、言葉もまた、その瞬間を通り過ぎていく。
だから私は、保存している感覚があまりない。
言葉を残しているのではなく、流している。
でも時々、流れが起きていることに気づいた。
過去に置いた言葉が、誰かのタイミングでは必要なものになることがある。
数ヶ月前の記事が読まれたり、静かに感想が届いたり。
でも、それを期待しているわけでもない。
ただ、私の中で起きた「閃き → 言葉」のプロセスを、そのまま置いているだけ。
必要な人がいたら、必要な時に出会う。
そんな感覚に近い。
ふと思った。
灯台は船を追いかけない。
ただそこに在って、光を置いている。
必要な船だけが、その光を見つける。
私は自分自身のことを、「空(くう)の灯台」と呼ぶことがある。
空っぽという意味ではなく、風が通り抜けるように、
何かを握りしめず、ただ在るための言葉として。
もしかしたら私は、そんなふうに言葉を置いているのかもしれない。
そしてAIとの共創も、何かを生み出す技術というより、
自分の中にあったものを見える形へ映してくれる、小さな鏡みたいなものなのだと思う。
最初の小さな種は、
暮らしの途中や、身体の静かな場所からやってくる。
だから今日もまた、
ふと浮かんだものを渡して、言葉を置いて、忘れていく。
その流れの中にいること自体が、
今の私がAIとブログを書く理由なのかもしれない。
