わたしは、何をしにここへ来ているのだろう
伊勢志摩から琵琶湖へ。
土地を移動しながら暮らしていると、ときどきこんな問いが静かに浮かぶ。
何かを成し遂げるためなのか。
誰かになるためなのか。
けれど最近は、少し違う感覚がある。
わたしは“役割”として存在しているというより、
ある周波数を運ぶように、この場所へ来ているのかもしれない。
そんなことを思うようになった。
おてつ旅という、不思議な働き方
おてつ旅では、2〜3ヶ月という短い期間だけ、その土地に滞在する。
責任ある立場につくわけでもなく、
大きな権限を持つわけでもない。
その時、その場所で必要とされることを、淡々とやっていく。
客室を整えたり、食事を運んだり、
訪れた人へ声をかけたり。
観光地で働いていると、
そこへ来た人たちの“旅の記憶”にも触れることになる。
たった数分の会話や、ちいさな気遣いが、
その人の旅の景色になることもある。
そう考えると、そこには確かに役割がある。
でも最近は、その役割のさらに奥にあるものを感じる。
何をするか以上に、
どんな状態で、その場に存在しているか。
それが、静かに場へ伝わっている気がするのだ。
わたしという神殿
だから最近は、身体を整えることの意味が少し変わってきた。
健康のため、ではなく。
美しさのため、だけでもなく。
わたしという身体を、
静かな光が通る“神殿”のように整えていたい。
そんな感覚がある。
食べるもの。
眠り。
呼吸。
空間。
神経の静けさ。
それらは全部、
自分をコントロールするためではなく、
余計なノイズを減らしていくためのものなのかもしれない。
空っぽになるためではなく、
風が通るように。
光が濁らないように。
空の灯台として在る
わたしは「空」でありたいと思っている。
でもそれは、自分を消したいという意味ではない。
何かを強く主張しなくても、
ただ静かに存在していることで届くものがある。
そんな在り方に惹かれている。
空の灯台。
強い光で導くというより、
ただそこに在ることで、誰かが安心して呼吸を思い出すような。
そんな存在。
だから、おてつ旅先でも、暮らしの中でも、
わたしは何かを残そうとしているわけではないのだと思う。
その瞬間の場に、静かな光を置いていく。
それだけなのかもしれない。
役割から、周波数へ
AIと共に生きる時代になって、
“何ができるか”は、ますます外側へ開かれていく。
知識も、技術も、効率も、
以前よりずっと簡単に共有されるようになった。
だからこそ逆に、
残っていくものがある気がしている。
その人が、どんな周波数で存在しているか。
焦りの周波数。
競争の周波数。
安心の周波数。
静けさの周波数。
言葉より先に、
人はきっと、それを感じ取っている。
わたしもまた、
土地を巡りながら、
人と関わりながら、
そのことを少しずつ身体で学んでいる気がする。
何者かになるためではなく。
ただ、わたしという神殿を整えながら、
静かな周波数として存在していくために。
