古代湖と暮らすような時間
おてつ旅で滞在していた部屋は、3階の小さな住まいだった。
ベランダに出ると、
その向こうに、毎日、琵琶湖があった。
観光地として見る湖ではなく、
ただそこに在り続ける、大きな水。
朝も、昼も、夕方も。
部屋にいる限り、
琵琶湖はいつも視界の向こうにあった。
気づけば私は、
その大きな水の気配を、
毎日、長い時間浴びながら暮らしていた。
何かを考えようとしていたわけではない。
ただ、
その気配のそばで暮らしているうちに、
身体の奥に入り続けていた力が、
少しずつ抜けていった。
古代湖という存在には、
情報とは違う時間が流れているのかもしれない。
何十年ではなく、
何万年という単位で、
そこに在り続けてきた水。
その前にいると、
人間の“急ぎ続ける感覚”が、
少し浮いて見えてくる。
最初は、
ただ景色を見ているつもりだった。
けれど毎日眺め続けているうちに、
だんだん「見る」という感覚が薄れていった。
湖面の揺れ。
風の流れ。
遠くをゆっくり進む船。
夕方になると変わっていく水の色。
それらを認識しているというより、
神経ごと、その静けさに浸かっていた感覚。
AIと共に生きる今、
思考は以前よりも、ずっと速く動くようになった。
問いを投げれば、
数秒で言葉が返ってくる。
情報も、整理も、理解も、
加速していく。
でもその一方で、
身体は、
そこまで速くはできない。
人間の神経は、
ゆっくりした時間を必要とする。
琵琶湖を眺めていると、
答えを探さなくても、
自然に静かになっていく瞬間があった。
何かを得ようとしなくても、
ただ風を感じ、
水を見ているだけで、
感覚が整っていく。
それは“癒し”というより、
もっと根本的な、
生き物としての感覚に戻っていく時間だった。
急がなくていい。
証明しなくていい。
無理に意味を作らなくていい。
そんなことを、
湖は何も言わずに、
ただ在ることで伝えていた。
AI時代になっていくほど、
人はますます、
「速く、正確に、効率よく」
へ向かっていく。
だからこそ逆に、
こういう“何も急がない存在”が、
これからの人間には必要だと思える。
ベランダから眺め続けた、
この2ヶ月間。
私は琵琶湖を見ていたようで、
本当は、
琵琶湖の時間の中に、
静かにほどかれていたのかもしれない𓂃𓈒𓏸
