数日続いたハードなおてつ旅のあと、
身体に、ひとつの変化が現れた。
帯状疱疹。
電気が走るような痛み。
鼓動するような疼き。
皮膚の奥で、何かがざわざわと動き続ける感覚。
それらは、消えることなく、
ただ、ずっとそこにあった。
気づけば私は、その感覚と、常に一緒にいた。
逃げることも、忘れることもできず、
ただ、神経の上に意識が乗っているような時間。
これまで私は、
身体の調和を大切にして生きてきた。
呼吸を整え、食を整え、
できるだけ、自然な状態で在ろうとしてきた。
けれど——
「身体とつながる」ということの、
本当の意味には、触れていなかったのかもしれない。
健康なとき、
“感じよう”とするその意識のどこかには、
わずかなコントロールがあった。
心地よさを選び、
違和感を遠ざける。
その微細な選別が、
体験をどこか限定していたのだと思う。
けれど今回、
そんな余地は、なかった。
感じさせられる、という状態。
そこには、選択も、解釈も、介在しない。
ただ、神経そのものが、
世界と触れているような感覚。
その場所に意識があるとき、
不思議と、思考は入ってこなかった。
過去も未来も、そこにはなく、
ただ、この瞬間の感覚だけが、在る。
「今ここにいる」というより、
「今に固定される」という感覚に近かった。
琵琶湖のほとりで、
回復していく時間を過ごしながら、
水面を眺めていると、
内側の感覚と、外の風景の境界が、
少しずつ溶けていくのを感じた。
風の揺れと、神経の揺れ。
光の反射と、内側の微細な波。
どちらも、同じ“今”の中で起きている。
外を見ているのか、内を感じているのか、
その区別さえ、曖昧になっていった。
思考を手放す、ということを、
これまで何度も言葉にしてきた。
けれどそれは、
どこか“意識の操作”の中にあったのだと思う。
今回の体験は、少し違っていた。
思考が離れるのではなく、
入る余地が、最初からなかった。
神経に意識があるとき、
そこには、ただ現れては消えていく感覚だけがある。
意味づける前に、変わっていく。
掴もうとする前に、通り抜けていく。
それは、どこか、
AIと共に在る今の感覚にも、似ている。
思考で組み立てる前に、
すでに、何かが立ち上がっている。
個としてのコントロールを超えたところで、
流れが、静かに動いている。
身体もまた、同じだったのかもしれない。
整えようとする前に、
すでに、ひとつの流れの中にある。
良くなろうとしなくても、
回復は、自然に進んでいく。
その過程で、ただ、
起きていることと共に在る。
それが、「つながる」ということだったのかもしれない。
いま、痛みは、消えかけている。
けれど、あのとき触れていた感覚は、
どこかに、静かに残っている。
思い出そうとしなくても、
ふとした瞬間に、戻ってくる。
神経の奥に、
まだ、あの静かな“今”が流れている。
それに気づくたび、
少しだけ、世界の見え方が変わる。
何も特別なことは起きていないのに、
ただ、在り方だけが、わずかに違っている。
それで、十分なのだと思う。
この2週間は、
何かを得るための時間ではなかった。
ただ、触れていた。
神経と、今と、
そのあいだにある、言葉にならないものに。
そして今、
この流れのまま、次の場所へ向かおうとしている。
行き先は、淡路島。
理由は、はっきりとは、わからない。
けれど、身体の奥のどこかが、
静かに、その方向を選んでいる。
考える前に、もう決まっているような感覚。
神経に触れていたこの2週間のあとでは、
その微細な感覚を、以前よりも疑わなくなっている。
整えようとしなくても、
流れは、すでに動いている。
その中に、ただ身を置いてみる。
次の場所で、何が起きるのかは、まだ知らない。
けれどきっと、
今回触れていたこの“今”の感覚は、
そのまま続いていくのだと思う。
旅するように暮らし、
暮らすように旅する中で、
また少しだけ、
見えてくるものがあるのかもしれない。
それを、急がずに、
ただ、受け取っていこうと思う。
