朝、鏡の前に立つ。
少しだけ増えた線。
なんとなく変わってきた輪郭。
当たり前だが、昔のほうが、整っていた。
そんなことを思いながら、
でも同時に、どこかで知っている。
この顔は、わたしが生きてきた時間そのものだということを。
若さは、与えられたものだった。
何もしなくても、そこにあった美しさ。
けれど今ここにあるものは、
通り過ぎてきた日々が、静かに残していったもの。
老いは、劣化ではなく“編集”なのかもしれない。
時間は、余計なものを少しずつ削ぎ落としていく。
飾りや、無理や、誰かに合わせていたかたち。
そうして最後に残るのは、
取り繕えない“わたし”そのもの。
削ぎ落とされた先にしか現れない輪郭がある。
それは、若い頃には持ち得なかったもの。
若いときほど整ってはいないかもしれない。
でも、どこか深く、静かに整っている。
最近は、AIと一緒に言葉を紡ぐことも増えた。
きれいに整えることも、
それらしく見せることも、
少し手を伸ばせば、いくらでもできる時代。
だけど、ふと立ち止まる。
この身体で感じていることだけは、どこにも外注できない。
この朝の空気。
この光のやわらかさ。
少し重たい身体の感覚さえも。
それを感じている“わたし”は、
ここにしかいない。
唯一無二とは、特別になることではなく、
もうすでに、どこにも代わりがないということ。
そしてそのことは、
ただ一つであるというだけで、
すでに美しく、静かに輝いているということでもある。
だから、整えようとしなくてもいい。
若さに戻ろうとしなくても、
何かになろうとしなくても。
残っているこの“わたし”を、そのまま使えばいい。
60代からは、“魂の遊び時間”。
そう決めたとき、
どこかで何かがほどけた気がした。
完成された何かになるためではなく、
この素材で、ただ遊んでいく。
少しやわらぎ、
少ししなやかになって、
だからこそ、自由に動ける。
削ぎ落とされたからこそ、軽やかに遊べる。
若さを超えて、
整えることを超えて、
残ったこの“わたし”で、
ただ、遊んでいく。
