この世界に、もし最初から意味がなかったとしたら。
わたしたちは、何を頼りに生きているのだろう。
そんな問いが、ふと内側に落ちてきた。
これまでの私は、
「どう生きるか」「どんな在り方で在るか」を
とても大切にしてきた。
おてつ旅というスタイルも、
余白家という在り方も、
空の灯台として存在することも。
どれも、静かにしっくりと選んできたものだった。
けれどあるとき、気づいた。
それらすべてが、
“この世界に意味がある”という前提の上で
成り立っていたのかもしれない、と。
もし、この世界に意味がないとしたら。
何を選んでも、間違いではないとしたら。
それでも私は、
今のこの生き方を選ぶのだろうか。
──答えは、静かに「YES」だった。
理由は、なかった。
ただ、そう在ることが
自然だったから。
意味があるから選ぶのではなく、
意味がなくても、なお選んでしまうもの。
そのとき、少しだけ見えた。
この世界は、もしかすると
“意味を持たない場所”ではなくて
“まだ意味が与えられていない、余白のような場所”なのかもしれない。
余白とは、何もないことではない。
そこには、すでに存在がある。
ただ、まだ名前がついていないだけ。
まだ、意味になっていないだけ。
そしてその余白に、最初に触れているのは
いつも身体だった。
言葉になる前の違和感。
説明できない心地よさ。
理由のない、ほんの小さな揺れ。
それらはすべて、
余白に触れたときの“身体の反応”。
私はこれまで、身体を整えることを大切にしてきた。
けれど最近、もうひとつのことに気づいた。
身体のケアと、身体との信頼関係は、別物だった。
どれだけ整えていても、
その瞬間に感じているものを受け取っていなければ、
身体はどこかに取り残される。
余白に触れるというのは、
コントロールを手放すことでもある。
意味を急がず、
ただそこにある感覚を、そのまま感じること。
何かを“しない”ことで、
すでにそこにある存在が、ふっと立ち上がる。
そしてそのあとに残るのが、余韻。
余白と余韻は、いつも静かにつながっている。
意味がない世界に立ったとき、
わたしたちは、少しだけ自由になる。
正しさからも、役割からも、
「こうあるべき」からも。
そしてその代わりに残るのは、
とてもシンプルなもの。
“今、どう感じているか”
それだけ。
意味がないからこそ、
感じることが、すべてになる。
その感覚の中で、
わたしたちはまた、静かに何かを選んでいく。
理由もなく、ただ惹かれてしまうものを。
その選択の中に、
あとからそっと、意味のようなものが宿るのかもしれない。
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