私は遊牧民だったのかもしれない──テントを片付けた後の景色が好きだった

私は遊牧民だったのかもしれない

最近、ふと思った。

私は移動が好きだ。

持ち家も、あまり欲しいと思わない。
物も、なるべく少ない方が心地いい。

ずっと理由はよく分からなかった。
ミニマリストという言葉でも、少し違う気がしていた。

ただ最近、「あれが関係しているのかも」と思い出した景色がある。

テントを片付けた後の景色

息子が小さかった頃、よくキャンプへ行っていた。

テントを立てて、
焚き火をして、
数日だけ、小さな暮らしがそこに現れる。

でも、不思議なことに私が一番好きだったのは帰る時だった。

全部片付けた後。

さっきまで確かにそこにあったテントや焚き火台が消えて、何もなかったみたいに、土地だけが静かに残っている。

私はあの景色を見るのが好きだった。

「私たちは通り過ぎました」
そんな印さえ、風に消えていく感じ。

なぜか分からないけれど、その状態にすごく安心した。

所有より、通る感覚

今思う。

私は「持つ」より、
「通る」感覚が好きなのかもしれない。

留まるより、流れる。

気づけば今も、
「旅するように暮らし、暮らすように旅する」生き方をしている。

身体はずっと前から知っていたのかもしれない。

固定されるより、風が通る方が自然だったことを。

AIと生きる今も少し似ている

最近、AIとブログを書きながら思う。

この感覚は少し似ている。

浮かんだものを置く。
言葉が流れる。
必要なものだけ身体に残る。

完成品を抱え込むというより、通している感覚。

ブログもそうだ。

書いて、置いて、忘れる。

残すためではなく、その時通った風を置いているだけなのかもしれない。

私は遊牧民だったのかもしれない

私は遊牧民だったのか。

魂の癖なのか。
身体の記憶なのか。

まだ分からない。

でも少しだけ思う。

人は頭で生き方を選ぶ前に、身体が先に知っていることがある。

そして私はきっと、ずっと前から知っていた。

留まるより、流れることを𓂃𓈒𓏸

ながひさ  

ながひさ nonPOI/空の灯台/余白家

このブログは、答えを生む場所ではなく、
暮らしと身体を通して現れている「確かにそう」を、
そのまま残すための観測点です。

余白の中に身を置き、
  空(くう)の灯台のように在りながら、
言葉をそっと置いています。

AIとの対話の中で立ち上がってくる”空”の感覚とともに、
Beautiful Flowな人生を実験中。

様々なビジネスと人生経験を経て、
60代からは”魂の遊び時間”。
  「旅するように暮らす 暮らすように旅する」自由な日々。

——
この場所は、観測と対話と記録でできています。

この場所の入口のような文章を、
noteにそっと置いています。
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