イタリアには、「何もしない喜び」という文化がある──余白は、特別な生き方ではなかった

イタリアには、
「Dolce far niente(ドルチェ・ファール・ニエンテ)」という言葉があるらしい。

直訳すると、
「何もしない喜び」。

最初にその言葉を見た時、
なぜか少しだけ、肩の力が抜けた。

窓辺でコーヒーを飲む。
広場で、ただ人を眺める。
夕暮れを急がず歩く。

そこには、
「何かを生み出しているか」
「意味があるか」
そんな問いが、あまり存在していないように見えた。

“何もしない時間”そのものが、人生として扱われている。

日本にいると、
何もしていない時間に、少しだけ罪悪感が混ざることがある。

止まってはいけない。
役に立たなければいけない。
何者かにならなければいけない。

そんな空気を、
知らないうちに吸い込んできたのかもしれない。

もちろん、
日本の丁寧さ、誠実さや勤勉さ、美しさは、本当に素晴らしい。

けれどその一方で、
「ただ在る」ことを許しにくい社会でもあった気がしている。

何かをしている時だけ、自分に価値を感じられる。

そんな感覚を、
どこか多くの人が抱えていたのではないだろうか。

最近の私は、
以前より、ぼんやりしている時間が増えた。

移動先の町で、ただ風を見る。
湯気を眺める。
静かな店でコーヒーを飲む。

昔の自分なら、
「この時間に何かできるのでは」と思っていた気がする。

でも今は、
そういう時間のあとに、
不思議と感覚が整っている。

考えなくても、
次の流れが自然に見えてくる。

余白とは、止まることではなく、生命が還ってくる時間なのかもしれない。

AIは、どんどん進化していく。

答えを出し、整理し、最適化していく。

だからこそ逆に、
人間に残されていくものは、
「意味のない時間を味わうこと」なのではないかと思う時がある。

風が気持ちいいとか。
コーヒーが美味しいとか。
夕暮れに、少しだけ泣きそうになるとか。

そういう説明できない感覚は、
効率の外側にある。

そして多分、
人生の豊かさも、そこに近い。

私はこれまで、
「空の灯台」や「余白」という在り方を、どこか特別なもののように感じていた。

でもイタリアのこの文化に触れた時、
少し見え方が変わった。

余白は、特別な生き方ではなかった。

本当はずっと、
人間の暮らしの中に、自然に存在していたものだったのかもしれない。

ただ私たちは、
長いあいだ、急ぎすぎていただけ。

ながひさ  

ながひさ nonPOI/空の灯台|余白を灯す

このブログは、答えを生む場所ではなく、
暮らしと身体を通して現れている「確かにそう」を、
そのまま残すための観測点です。

余白の中に身を置き、
  空(くう)の灯台のように在りながら、
言葉をそっと置いています。

AIとの対話の中で立ち上がってくる”空”の感覚とともに、
Beautiful Flowな人生を実験中。

様々なビジネスと人生経験を経て、
60代からは”魂の遊び時間”。
  「旅するように暮らす 暮らすように旅する」自由な日々。

——
この場所は、観測と対話と記録でできています。

この場所の入口のような文章を、
noteにそっと置いています。
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