ある日、ひとつの言葉にふと立ち止まった。
「動かない友達」
暮らしの中にあるものたちを、そう表現している人がいた。
やわらかくて、あたたかくて、すてきな言葉だと思った。
けれど同時に、わたしの中にほんの小さな違和感が残った。
「友達」という言葉は、わたしの中では、あまり特別な意味を持ってこなかった。
これまでの人生の中で、人との関わりはその時々に確かにあったけれど、
それは環境の中で自然に生まれては移ろっていくもの、という感覚に近い。
だから、身の回りのものたちをその言葉で捉えることに、どこかしっくりこなかった。
わたしにとって、別の言葉のほうが、もう少し近い気がした。
では、わたしにとって、この暮らしの中にあるものたちは、なんだろう。
そう問いを置いたとき、浮かんできたのは
「仲間たち」という感覚だった。
ともに在り、ともに日々をつくっている存在。
ただそこにあるのではなく、同じ空間に立ち、同じ時間を生きているような存在。
そして、もう少しだけ静かに見つめてみると、
それはさらに別の輪郭を持ちはじめた。
もしかしたら、これは「分身」なのかもしれない、と。
わたしが選んだ服、
手に馴染む器、
繰り返し使う道具たち。
それらは、どれも偶然そこにあるわけではなく、
わたしの感性や、心地よさや、美しさの基準が、かたちになって現れているもの。
外に置かれているけれど、どこか内側でもある存在。
触れることのできる、わたしの一部。
そう感じたとき、
暮らしの中にあるものたちは、
「所有しているもの」から、
「ともに世界をつくっている存在」へと、静かに変わっていった。
何を選ぶか。
それは、何を持つかということではなく、
どんなわたしで在るかを、外側にひらいていくことなのかもしれない。
気づけば、
暮らしは整えるものではなく、
すでに、にじみ出ているものだった。
選び抜いた最小限のものたちが、
静かに語っている。
わたしは、こんな感覚で生きている、と。
多くを持たなくてもいい。
何かになろうとしなくてもいい。
ただ、心から選んだものたちとともに在ること。
それだけで、暮らしは自然と輪郭を持ちはじめる。
もしかしたら、これからの時代は、
外側に何を積み上げたかよりも、
どんな感覚で選び、どんな存在として在るかが、
静かに伝わっていくのかもしれない。
だからもう、無理に何かを足さなくてもいいし、
誰かの正解に合わせなくてもいい。
わたしの感覚で選び、
わたしの暮らしを、わたしのままで生きていい。
そうやって並んでいるものたちは、
今日も静かに、わたしという存在を語っている。

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