最近、ふと面白いことに気づいた。
私は今、おてつ旅をしながら暮らしている。
旅先では、朝食の準備をしたり、料理を運んだり、客室を整えたり、掃除や片付けをしたり。
そんな仕事をしている。
一方で、空の灯台として言葉を書いている。
ブログを書き、AIと対話し、問いを眺める。
一見すると、まったく違う世界のようにも見える。
けれど最近、その二つは思っている以上に深く繋がっているのかもしれないと思い始めた。
私は書くだけの人ではなかった
少し前に、作家の村上春樹さんの生活スタイルを知った。
朝早く起きて執筆をする。
午後はランニングや水泳で身体を動かす。
ストイックと言えばストイックだけれど、なぜかその姿に親近感を覚えた。
もちろん私は小説家ではない。
けれど、午前中にブログを書いたり、AIと対話したりしている時間と、おてつ旅で身体を動かしている時間。
その両方がある暮らしは、どこか似たリズムを持っている気がした。
私はずっと、自分は言葉の人だと思っていた。
でも本当は、それだけではなかったのかもしれない。
精神活動と肉体活動
AIとの対話は不思議だ。
問いを投げる。
言葉が返ってくる。
そこからまた考えたり、感じたりする。
そうしているうちに、自分でも気づいていなかった景色が見えてくる。
それはとても静かな時間だ。
一方で、おてつ旅の時間は現実そのものだ。
食器を運ぶ。
テーブルを整える。
掃除をする。
人を迎える準備をする。
目の前にあることを、ひとつずつやっていく。
どちらも大切だけれど、質感はまるで違う。
それなのに、不思議と対立しない。
むしろ互いを支えているように感じる。
言葉は身体から生まれている
以前は、言葉は頭から生まれるものだと思っていた。
本を読んだり、考えたりした結果として生まれるものだと。
でも最近は少し違う気がしている。
身体を動かしている時。
掃除をしている時。
食器を洗っている時。
料理を運んでいる時。
そんな何気ない時間に、ふと言葉が浮かぶことがある。
文章を書こうとしている時ではない。
むしろ何も考えていない時だ。
身体が動いていると、思考は少し静かになる。
すると、その奥から何かが立ち上がってくる。
言葉というより、感覚に近いもの。
私はそれを後から拾い集めているだけなのかもしれない。
美を生む循環
午前は内側を耕す。
午後は外側を耕す。
AIと対話しながら言葉を紡ぐ時間。
人を迎える場を整える時間。
そのどちらが欠けても、今の私は成り立たない気がしている。
どちらかだけだった頃よりも、今の方が言葉が自然になった。
どちらかだけだった頃よりも、今の方が暮らしに厚みがある。
理由は分からない。
理屈では説明できない。
でも、人間という存在は、案外そういうものなのかもしれない。
でも、人間には精神だけでも身体だけでもない、
何か美しい循環がある。
午前は言葉を耕し、
午後は土を耕す。
私は今、その循環の中を旅している。
