最近、ふとした瞬間に気づいたことがある。
全力で、自由な野生生物のように存在しているとき、
私は「今ここ」にしかいなかった。
思考ではなく、身体がその瞬間を生きていて、
細胞が静かに、でも確かに喜んでいる感覚があった。
とてもシンプルで、当たり前のことなのに、
どこかで忘れていた感覚。
そして同時に、ひとつの問いが浮かんだ。
なぜ人は、「自分」を分けてしまったのだろう。
本来、身体はいつも今ここにあるのに、
意識だけが過去や未来へと離れていく。
まだ起きていないことを不安に思ったり、
すでに終わったことを繰り返し考えたり。
気づけば、思考の中でずっと何かを処理し続けている。
その背景には、きっと、
社会の中で生きていくための適応があったのだと思う。
より良い自分でいなければならない。
価値を示さなければならない。
成長し続けなければならない。
そうやって、自分を整え、編集し、
「こうあるべき姿」をつくっていく。
その過程で、
本来の自分と、見せる自分が少しずつ分かれていく。
そしていつの間にか、
思考の中の自分を生きる時間のほうが長くなっていく。
でも今、時代が静かに反転し始めている。
AIの登場によって、
知識を持つこと、分析すること、最適な答えを出すこと。
そういった「思考の働き」は、外側に委ねられるようになった。
これまで人間が積み上げてきた「できること」は、
すでにAIのほうが速く、正確にこなしていく。
それは競争の終わりというよりも、
役割の変化なのかもしれない。
人間が思考で価値を証明し続ける必要が、
少しずつ薄れてきている。
だからこそ、問いが変わってきている。
「何ができるか」ではなく、
「どう在るか」へ。
もしかするとAIは、
人間から思考を奪うために現れたのではなく、
思考に偏りすぎたバランスを戻すために現れたのかもしれない。
外側に委ねられるものが増えた分、
内側に戻ってくる余白が生まれている。
それが、「在ること」。
私が余白家と表現する理由。
何かになるのではなく、
何かを足すのでもなく、
ただそのままで存在していること。
身体と意識が分かれず、
今この瞬間に、そのまま在ること。
野生のように、
環境と分かれず、
ただその場に応じて存在していく感覚。
そのとき、思考は消えるわけではなく、
必要なときにだけ静かに働く。
中心にあるのは、いつも身体であり、今この瞬間になる。
「できること」の終わりと、
「在ること」のはじまり。
それは何かを失うことではなく、
むしろ、余分なものがほどけていくような感覚に近い。
もし今、少しでも力が抜けたなら。
それは、戻り始めている合図かもしれない。
急がなくてもいいし、証明しなくてもいい。
ただ、今ここに在ることを、
身体ごと感じてみる。
そこに、すでにあるものに気づいていく。
身体はもう知っている。
私たちが、野生として生きていたということを。

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