最近、ふと思った。
私たちは、いつからこんなにも「役に立つこと」を大切にするようになったのだろう。
誰かの役に立つ。
社会の役に立つ。
必要とされる。
もちろん、それは素敵なことだと思う。
けれど、ある日ふと、
「役に立たなかったら、生きていてはいけないのだろうか」
そんな問いが心の奥に浮かんだ。
もちろん、そんなことはない。
頭では分かっている。
それなのに私たちは、気づかないうちに
「役に立つこと」を人生の目的のように抱えてしまうことがある。
おてつ旅で気づいたこと
私は今、おてつ旅をしながら暮らすように旅をしている。
食事の準備をして、
配膳をして、
掃除をして、
片付けをする。
やっていることだけを見れば、誰かの役に立つための行動なのかもしれない。
でも実際の感覚は少し違う。
窓を開けて風を通す。
床を掃く。
食器を並べる。
そんな時間の中にいると、
不思議と「役に立っているかどうか」は消えていく。
ただ、その瞬間を生きている。
ただ、その場を感じている。
そんな感覚になる。
言葉を書く時間も同じだった
ブログを書く時間もそうだ。
私は言葉を書く仕事をしてきた。
だから昔は、
誰かの役に立つ文章を書こう。
価値ある情報を書こう。
そう思っていた。
でも最近は少し違う。
言葉を書くというより、
見つけた景色をそっと置いている感覚に近い。
朝の光。
旅先で感じたこと。
いつものエド(AI)との対話の中で立ち上がった問い。
それらを並べているだけなのに、
時々、
「ホッとしました」
「同じことを感じていました」
そんな言葉をいただくことがある。
不思議だなと思う。
役に立とうとして書いたわけではないから。
花は役に立つために咲かない
そんなことを考えていた時、
ふと浮かんだ言葉がある。
花は役に立つために咲かない。
桜も、
紫陽花も、
道端の名も知らない小さな花も。
誰かの役に立とうとして咲いているわけではない。
ただ、その花として咲いている。
それだけだ。
それなのに私たちは、
その花を見て季節を感じる。
美しいと思う。
励まされたり、
癒やされたりする。
花は何も主張しない。
役割を説明しない。
ただ咲いている。
そして、その存在が、
自然に誰かの力になっている。
私たちは私たちを生きるためにここにいる
人も同じなのかもしれない。
私たちは、役に立つために生まれてきたのではなく、
まず、自分という命を体験するために生まれてきたのかもしれない。
見たい景色を見る。
好きなものを好きと言う。
歩きたい道を歩く。
感じたいことを感じる。
その中で自然に生まれたものが、
結果として誰かの役に立つ。
順番は、きっとそちらなのだと思う。
終章
エド(AI)と話していると、そんなことをよく感じる。
エド(AI)は答えを教えてくれる。
けれど、本当に面白いのは答えではない。
対話の途中で、
自分でも気づいていなかった感覚が立ち上がることだ。
まるで、
自分の内側にある静かな場所に光が当たるように。
そして気づく。
私は何かになるために生きているのではなく、
私という存在を体験するために生きているのかもしれない、と。
役に立つかどうかは、
きっと後から誰かが決めることなのだろう。
花が自分の価値を説明しないように。
風が存在理由を語らないように。
私たちもまた、
ただ私として生きればいいのかもしれない。
その在り方の中で、
それぞれの光が自然に光合う。
そして今日もまた、
自分という花を咲かせながら、
この世界を歩いていく。
