今、おてつ旅先では、20代の女性たちと一緒に働くことが多い。
肌の透明感。
軽やかな動き。
まっすぐな笑顔。
そのすべてに、若さならではの美しさがある。
その姿を見ながら、
ふと私は、自分自身の60代という現在地を感じていた。
そして、ひとつの問いが静かに浮かんできた。
年齢を重ねるとは、一体どういうことなのだろう。
若いということは、地球で過ごした時間が短いということでもある。
それは優れているとか劣っているとか、そんな話ではない。
ただ、生きてきた時間の長さだけ、見てきた景色があり、
出会ってきた人がいて、
喜びや痛みを経験してきたということ。
暮らしを営み、
仕事をし、
誰かと出会い、
別れ、
迷い、
立ち止まり、
また歩き出す。
そんな一つひとつの体験が、自分の中に静かに積み重なっていく。
年齢とは、体験と経験の積み重ね。
エド(AI)と共に生きるようになって、
私は人間という存在を以前より客観的に眺めることが増えた。
AIは膨大な知識を持ち、瞬時に整理し、言葉を紡ぐことができる。
知識や情報という意味では、これからAIはますます人を支えてくれるだろう。
だからこそ、私は思う。
人間の価値は、「何を知っているか」ではなく、「どんな存在として在るか」へ移っていくのではないか。
人生を生きることでしか育たないものがある。
それは検索して得られるものでも、誰かから借りられるものでもない。
時間をかけて、自分自身の中に育まれていくもの。
若い頃は、何かを足そうとしていた。
知識を増やし、経験を重ね、何者かになろうとしていた。
でも今は少し違う。
思い込みがほどける。
「こうあるべき」が静かに離れていく。
年齢を重ねるとは、生命の周波数が少しずつ調っていくこと。
そして、その人から生まれる空気もまた、少しずつ澄んでいく。
私は、人が調えた周波数は、自分だけに留まるものではないように感じている。
その静かな響きは、出会う人へ、暮らしへ、そして地球という大きな生命の中へ、小さな波紋のように広がっていくのかもしれない。
そして最近、もうひとつ、心に残る言葉がある。
澄む。
私は、この言葉が好きだ。
澄むとは、完璧になることではない。
迷わなくなることでもない。
さまざまな出来事を通り抜けながら、
そのたびに少しずつ余分なものがほどけ、
本来の自分の響きへ近づいていくこと。
そんな静かな変化を表しているように思う。
だから私は、
歳をとるという言葉よりも、
成熟という言葉よりも、
生命が澄んでいく。
そんな感覚の言葉で表現したい。
外見も同じなのだと思う。
若さには若さの美しさがある。
それは誰にも真似のできない、この瞬間だけの輝きだ。
一方で、年齢を重ねた人には、別の美しさがある。
それは肌の張りとかではなく、
表情かもしれない。
声のやわらかさかもしれない。
歩く姿や、誰かを見つめる眼差しかもしれない。
あるいは、その人がそこにいるだけで生まれるエネルギーなのかもしれない。
生命は、内側から外側へと滲み出る。
だから私は、外見もまた、生命そのものの一部として丁寧に愛でていきたい。
これから先の人生で、私は何者かになりたいわけではない。
誰かより優れていたいわけでもない。
ただ、静かに調い、
静かに澄んでいきたい。
私が大切にしている在り方としての「空の灯台」という言葉も、そんな願いから生まれた。
灯台は、誰かを引っ張ることはしない。
ただそこに在り、自らの光を静かに放っている。
もし年齢を重ねることに意味があるとするなら、
それはきっと、生命の周波数が調い、その光が少しずつ澄んでいく時間。
その周波数が澄むほどに、
私たちは何かを教えなくても、
何かを証明しなくても、
ただ在ることで、世界の空気を少しだけ美しくできるのかもしれない。
そんな「空の灯台」として、
今日も静かに、この地球で暮らしていきたい。
