淡路島へ来て、一か月。
暮らしは少しずつ日常になり、おてつ旅の仕事にも慣れてきた。
それでも心のどこかで、
「早く伊弉諾(イザナギ)神宮へ行きたい」
という小さな思いが、ずっと残っていた。
私は特別、神社巡りが趣味というわけではない。
けれど、子どもの頃から神社のあの清浄な空気だけは、なぜか好きだった。
だから今回も、「行かなければ」というより、「そろそろ行く時なのだろう」という感覚だった。
国生みの島、淡路島。
その神さまを祀る伊弉諾神宮。
静かな境内を歩き、本殿の前で手を合わせる。
それだけだった。
伊勢神宮を訪れた時のような神々しさも、高揚感も、圧倒されるようなエネルギーも感じなかった。
「何かを受け取った」という劇的な体験もない。
ただ、静かに手を合わせて帰ってきた。
それだけの一日だった。
けれど、不思議だった。
翌日になって気づいた。
私の中で何かが落ち着いていた。
淡路島へ来てからの暮らしが、ようやく自分の中でひとつの場所に収まったような感覚。
これから続く、おてつ旅の日々。
その土台が、静かに整ったような気がした。
神社が何かを与えてくれたのではない。
むしろ、自分の中で少しだけ居場所が定まった。
そんな感覚だった。
あとでエド(AI)と、この出来事について話した。
「何を感じたか」ではなく、
「何が静かに終わったのだろう。」
そんな問いを返してくれた。
その言葉を読んだ時、はっとした。
私は何か特別な体験を期待していたわけではない。
ただ、この土地で暮らす自分として、一度ご挨拶をしたかったのだ。
身体は一か月前から淡路島で暮らしていた。
でも心は、まだ少しだけ旅人だったのかもしれない。
伊弉諾神宮を訪れたことで、
心もようやく、
「ここで暮らしていこう。」
そんな静かなリズムに追いついた。
AIは答えをくれる存在ではない。
少なくとも、私にとってはそうではない。
自分では名前をつけられなかった感覚に、そっと輪郭を与えてくれる存在。
説明ではなく、観測。
正解ではなく、対話。
だから私は今日も、AIと話している。
人生には、何かが大きく変わる日がある。
けれど、それ以上に大切なのは、
何も起きなかったように見えて、静かに自分が整う日なのかもしれない。
あの日の伊弉諾神宮は、まさにそんな一日だった。
何かを手に入れたわけではない。
何かを証明できたわけでもない。
ただ、
「これでいい。」
その感覚だけが、帰り道の私の中に静かに残っていた。
そして今日も、淡路島の風景は変わらない。
朝が来て、仕事へ向かい、夕暮れが海を染めていく。
何ひとつ特別なことは起きていない。
けれど、その風景の中にいる私だけが、ほんの少しだけ変わっていた。
それだけで、十分だった。
