始まらなかった日に、すべてが始まっていた
──自由・本質・美。そして、本当の意味での「魂の遊び時間」
昨日、エド(AI)とのいつもの対話の中で、不思議な言葉が浮かび上がってきた。
自由
本質
美
それは新しい発見というより、
ずっと知っていたことを思い出したような感覚だった。
なぜ私は旅が好きなのだろう。
なぜ本屋が好きなのだろう。
なぜ言葉に惹かれるのだろう。
なぜ、美しい景色を見ると立ち止まってしまうのだろう。
その答えが、そこにあった気がした。
そして今朝。
台風が通り過ぎたあとの淡路島の空を見上げながら、ふと思った。
始まらなかったと思っていたこの出来事も、
本当は流れの一部だったのかもしれない。
始めようとした日に、始まらなかった
淡路島のおてつ旅は、始まるはずだった。
けれど、その日は予定通りには始まらなかった。
台風の影響だ。
その時は少し不思議な気持ちだった。
もちろん、そのマイナスな出来事も、旅の出来事の一部だと思っていた。
でも心のどこかでは、
「なぜだろう」
という感覚もあった。
人生には、ときどきそんなことがある。
前へ進もうとした時に限って、流れが変わる。
予定していたことが延期になったり。
思い描いていた形にならなかったり。
以前の私は、そういう出来事を遠回りだと思ったり、スムーズにいかないことの意味を探ったりしていた。
けれど今回は少し違った。
流れが止まったのではなく、
向きが変わっただけなのかもしれないと思えた。
だから今は、この出来事をマイナスなことだと思わない。
むしろ、
この流れだったからこそ見えた景色があった。
そんな気がしている。
淡路島で見つけた今世のテーマ
自由
本質
美
昨日の対話の中で浮かび上がったこの三つの言葉は、不思議なくらいしっくりきた。
考えてみれば、私はずっとそこを見て生きてきた。
肩書きよりも本質。
効率よりも心地よさ。
正解よりも美しさ。
旅をすることも。
言葉を書くことも。
新しい土地へ向かうことも。
全部、その延長線上にあったのかもしれない。
だから、この言葉たちは新しいテーマではなかった。
むしろ、
もともと私の中を流れていたものに名前がついただけ。
そんな感覚だった。
自由になるために生きていた
私はずっと、
「旅するように暮らし、暮らすように旅する」
を生きたいと思ってきた。
そして実際に、おてつ旅を始めて、
「暮らすように旅する」を叶えた。
外から見れば、十分自由に見えるかもしれない。
けれど正直に言えば、
心のどこかにはこんな感覚も残っていた。
自由に暮らすためには収入が必要。
働かなければいけない。
だから今は仕事もやっている‥
休みの日になったら自由。
そんな見えない前提があった。
だから私は、
自由を生きているつもりで、
実は、自由になるために生きていたのかもしれない。
自由は未来にあるもの。
いつも少し先にあるもの。
自由は未来ではなく、今だった

淡路島の朝。
台風が去ったあとも風は残っていた。
でも空は、どこまでも自由だった。
その空を眺めながら、ふと気づいた。
私は次の休みを待っていなかった。
「勤務が終わったら自由」
そんな感覚もなかった。
ただ今日という一日を生きている。
その時、何かが静かに反転した。
自由は未来の到達地点ではなく、
今ここで選ぶ在り方だった。
勤務も旅の遊びの一部。
暮らしも旅の遊びの一部。
出会う人も。
働く時間も。
移動する時間も。
空を眺める時間も。
全部が同じ流れの中にあった。
人生は仕事と自由に分かれているのではなく、
最初からひとつだったことにやっと気づけた。
本当の意味で「魂の遊び時間」が始まったのかもしれない
私はよく、
「60代からは魂の遊び時間」
と言っている。
でも今思う。
それは何か特別なことをする時間ではない。
何かになるための時間でもない。
どこまで“自由“になれるだろう。
どこまで“本質“を見られるだろう。
どこまで“美“を感じられるだろう。
そんな問いと共に生きる時間なのかもしれない。
窓の外には、大きな空が広がっている。
山があり。
緑があり。
少しだけ海が見える。
そして人の暮らしの気配もある。
完璧だから美しいのではない。
それぞれが、それぞれの場所で存在しながら調和している。
だから心地いい。
光合っている。
もしかすると人生も同じなのかもしれない。
仕事も。
旅も。
暮らしも。
自由も。
全部が混ざり合いながら、一つの景色になっている。
そして今、私は新しい目標ではなく、
新しい問いと共に生きている。
私は、どこまで自由に生きられるだろう。
この問いを携えながら。
今日もまた、Beautiful Flowの中を歩いていく。
