そう感じたのは、ほんの数日前のこと。
おてつ旅での一週間。思っていた以上にハードだった肉体労働。
気づかないうちに、身体は静かに限界を超えていた。
微熱と、脇腹の痛み。「ちょっと疲れただけかな」と思いながらも、どこかで違和感があった。
そして、身体の声に従って、休むことを選んだ。
流れのままに訪れたクリニックで告げられたのは、帯状疱疹。
ああ、やっぱり。身体は、ちゃんと伝えてくれていたんだ。
予定していた観光はやめて、ただ休むことにした。
何もしない時間。少し前の私なら、どこか落ち着かなかったと思う。
でも今回は、違った。
だらっとすることに、少しずつ許可が出ている。
ピリピリとした神経の感覚が、「今ここ」に意識を戻してくる。
動けないことすら、どこか静かで満ちていた。
そのとき、ふと浮かんだ。
音を出さない時間も、整えのうち。
いい楽器ほど、メンテは繊細だから。
無理に鳴らさなくてもいい。むしろ、鳴らさない時間があるからこそ、本当に響く音が生まれる。
きっと、身体も同じ。
この地球で遊ぶためには、エネルギーの満ちた身体が必要だった。
自由に生きるほど、その前提は、どんどん繊細になっていく。
気力で動くこともできる。実際、そうやって働いている人も多い。
でも私は、もう少し違う選び方をしたいと思った。
身体で何が起きているのかを知り、必要なときは、きちんと専門の力も借りる。
そして最後は、自分の感覚で選ぶ。
その積み重ねが、「わたしで生きる」ということなのだと思う。
観光地ではなく、今日はただ、美味しいアイスクリームを探している。
それだけで、少しワクワクしている。
外側の予定ではなく、内側の感覚で動く日。
それはとても静かで、でも確かに満ちている。
これからの時代は、何かにならなくてもいい。
役割と、好きと、感覚。その交差点に立っていれば、自然と流れは生まれていく。
無理に走らなくてもいい。頑張って証明しなくてもいい。
もうすでに、そうやって生きていい場所に来ている。
身体は、そのことを一番よく知っている。
だから、ときどき止める。ときどき、鳴らさない。
それは後退じゃなく、調律。
自由の精度を上げるための、静かな時間。


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