部屋のベランダから、琵琶湖を眺めていた。
手には、好きなワイン。
耳には、静かに流れる音楽。
夕暮れがゆっくりとほどけていき、
対岸に、ひとつ、またひとつと灯りがともりはじめる。
その光景を、ただ見ていた。
何かを考えるわけでもなく、
何かを得ようとするわけでもなく、
ただ、この時間の中にいる。
あまりに今。
あまりに真っ直ぐで、
あまりに素で、
あまりに透明で、
そして、
あまりに、なにもない。
ふと、気づく。
満たそうとしなくても、
すでに触れているものがあることに。
何かになろうとしなくても、
すでにつながっている感覚があることに。
これまで、どこかで信じていた。
満たされるには、何かを足さなければいけないと。
価値を持つには、何者かにならなければいけないと。
役割を持ち、意味を持ち、
何かを生み出し続けることで、
ようやくここにいていいのだと。
でも、違った。
何も足さないまま、満ちている時間があった。
役割を降りたまま、
世界と静かにつながっている感覚があった。
それは、とても小さくて、
見過ごしてしまいそうなほど静かで、
けれど、確かにここにあるものだった。
これからのAI時代は、きっと、
何かを手に入れることや、
何者かになることが、
ますます簡単になっていく。
望めば、いくらでも足せる。
いくらでも拡張できる。
だからこそ、
何も足さない、という選択。
何者にもならない、という自由。
それが、静かにひらいていく。
夕暮れの湖に、灯りがともるころ。
わたしは、何かになろうとするのをやめていた。
満たそうとするのを、やめていた。
そのとき、はじめて、
何者にもならないまま、
すべてとつながっている感覚が、
すっと、ひらけた。
もし今、どこかで、
満たさなければ、と思っているなら。
何者かにならなければ、と感じているなら。
ほんの少しだけ、
その手をゆるめてみてもいいのかもしれない。
もう、すでに触れているものがあるから。
もう、すでにつながっているから。
