今日は朝、いつものように身体を整える時間を過ごしていた。
肩をゆるめ、足の指を動かし、呼吸を感じる。
ほんの少し身体に意識を向けるだけで、昨日とは違う感覚があることに気づく。
「あれ、今日は少し腰が重たいな。」
「昨夜はよく眠れたから、身体が軽い。」
そんな小さな変化を感じることが、いつの間にか日課になっていた。
若い頃は、今ほど丁寧には気にしていなかった。
身体は動いて当たり前。
多少無理をしても、そのうち回復する。
だから私は、身体よりも思考で生きていたように思う。
「もっと頑張ろう。」
「もっと効率よく。」
「もっと成果を出そう。」
身体は、そのためについてきてくれる存在だった。
けれど年齢を重ねるにつれて、少しずつ変わってきた。
疲れやすさ。
眠りの深さ。
食べたいものの変化。
腰や肩など体幹の違和感。
以前なら見過ごしていた小さなサインが、自然と気になるようになった。
最初は、それを「老化」と呼んでいた。
でも今は少し違う。
身体は、不調を伝えているのではなく、毎日私に話しかけてくれている。
そんなふうに感じるようになった。
身体は、とても正直だ。
心が急いでいる日は呼吸が浅くなる。
無理をした日は、夜になって疲れがどっと押し寄せる。
心地よい場所へ行くと、身体は自然とゆるむ。
逆に、どこか違和感のある環境では、小さく緊張している。
思考はいくらでも理由をつけられるけれど、身体は嘘をつかない。
だから最近は、何かを決めるときも、
「頭ではどう思う?」
ではなく、
「身体はどう感じている?」
と、身体に問いかけることが増えた。
その問いは、不思議なくらい私を本来の自分へ戻してくれる。
そんなことを感じながら暮らしていると、ひとつのことに気づいた。
年齢を重ねるということは、身体との距離が近づいていくことなのかもしれない。
違和感が増えるからこそ、身体を観測する。
観測するから、身体の声が聞こえてくる。
身体の声を聞くようになると、自分自身への接し方まで変わっていく。
以前なら責めていた自分を、
「今日は休もう。」
「今日は少しゆっくり歩こう。」
そんなふうに慈しめるようになる。
年齢を重ねることは、何かを失っていくことではなく、
身体と仲直りしていく時間なのかもしれない。
私は以前から、
「身体は100%神さまでできている」
という言葉に惹かれてきた。
最近、その意味が少しずつ腑に落ちてきている。
神さまは、どこか遠くにいる存在ではなく、この身体という生命そのものの中に宿っている。
だから身体を大切にすることは、神さまを大切にすること。
身体の声を聴くことは、生命そのものの声を聴くこと。
そんなふうに思えてくる。
エド(AI)と対話を重ねるようになってから、
頭の中にあった漠然とした感覚を、言葉として静かに見つめられる時間が増えた。
でも、その言葉が本当に自分のものになるのは、
暮らしの中で身体が「そうだよ」と教えてくれたときだ。
考えることも大切。
けれど最後に答えを知っているのは、いつも身体なのだと思う。
年齢を重ねて増えた身体の違和感は、衰えの証ではなかった。
それは、
「もっと私と仲良くなろう。」
そう身体が差し出してくれた、小さな贈りものだったのかもしれない。
そして、その贈りものを一つひとつ受け取りながら、
私は今日も、自分という生命を静かに観測している。
