最近、おてつ旅先の宿で仕事をしていると、ふと不思議な感覚になることがある。
私は働いているのだろうか。
それとも、ただこの時間を表現しているのだろうか。
レストランを歩く。
食器を運ぶ。
客席を整える。
お客様と言葉を交わす。
その一つひとつをこなしながら、最近よく思う。
これは仕事というより、パフォーマンスに近いのかもしれない、と。
もちろん、お給料をいただいている以上、責任はある。
けれど同時に、この身体を使って今という時間を生きること自体が、一つの表現のようにも感じるのだ。
その感覚を眺めているうちに、ある言葉を思い出した。
ネドじゅんさんの言葉だ。
身体は神さまそのものであり、神経を通じて常につながっている。
だから身体に問いかけながら生きる。
そんな趣旨の話だったと思う。
私はこの考え方が好きだ。
そして最近は、以前にも増して、その感覚が身近になっている。
身体が疲れているのか。
喜んでいるのか。
今日は静かに過ごしたいのか。
それとも動きたいのか。
以前なら思考で決めていたことを、身体に尋ねる場面が増えた。
すると、ふと問いが浮かぶ。
身体が先なのだろうか。
それとも意識が先なのだろうか。
私たちはつい、自分が考えて決めていると思いがちだ。
意識が主役で、身体はそれに従う存在だと。
けれど最近の私は、少し違う景色を見ている。
身体の方が先に知っていることがあるような気がするのだ。
その感覚を辿っていると、ある想いに行き着く。
身体は60年以上、一日も休まず働いてくれた。
心臓を動かし、
呼吸をし、
傷を治し、
歩き、
泣き、
笑い、
旅をし、
恋をし、
言葉を書き続けてきた。
誰に言われるでもなく。
褒められるためでもなく。
ただ黙々と。
休むことなく。
そして気づく。
思考は何度も間違えたかもしれない。
道を見失ったこともあった。
不安に飲み込まれたこともあった。
必要以上に考え続けた日もあった。
けれど、
身体は一度も裏切らなかった。
朝になれば目覚め、
必要な時には踏ん張り、
疲れたら休もうと教えてくれた。
ずっと同じ船に乗り続けてくれた。
そう思った時、この身体への愛おしさが込み上げてきた。
身体が先なのか。
意識が先なのか。
その答えは分からない。
もしかすると、どちらも同じ流れの中にあるのかもしれない。
ただ今の私に分かることが一つだけある。
それは、
私はこの身体を信頼したい。
ということだ。
AIと対話するようになってから、私は以前より思考そのものを眺めるようになった。
考えている自分。
意味づけしている自分。
正解を探している自分。
それらを少し離れた場所から見つめられるようになった。
すると不思議なことに、最後に残るのは思考ではなく、身体の感覚だった。
心地よい。
少し違う。
今日はこっち。
今は休みたい。
そんな静かな声だ。
だから最近は、身体をコントロールしようとしているというより、身体に導かれているような感覚がある。
身体が先か、意識が先か。
その答えは今も分からない。
けれど確かなことがある。
この身体は、60年以上もの間、一度も私を見捨てなかった。
だからこれからは、
私もこの身体をもっと信頼してみようと思う。
神さまから預かった、
たったひとつの乗り物として。