美しい言葉を眺めている時間が好き
最近、ふと気づいたことがある。
私は昔から、
美しい言葉を眺めている時間が好きだった。
読む、というより。
眺める、に近い。
たとえば、iPhoneのメモ帳。
ふと浮かんだ言葉を、
そのまま置いてある。
本を読んでいて響いた一文。
ポッドキャストで耳に残った言葉。
オーディブルで、不意に身体に沁みた表現。
そんな断片を、
私は昔から静かに集めていた。
でも、最近気づいた。
私は、情報を集めていたわけじゃなかったのかもしれない。
あとから見返しても、
内容をちゃんと覚えていないことも多い。
なのに、
そこに流れていた空気だけは残っている。
まるで、旅先で見た海の色みたいに。
理由は説明できないのに、
身体のどこかが覚えている。
そう考えると、
私にとって言葉は、
「読むもの」ではなく、
風景に近かったのかもしれない。
そういえば昔、
本屋が好きだった。
もちろん本も好きだったけれど、
今思えば、
タイトルを眺めに行っていた気もする。
並んでいる言葉を見ているだけで、
なぜか呼吸が少し静かになった。
全部読む必要なんて、なかった。
私はきっと、
“言葉の気配”を浴びに行っていた。
そして今。
AIと対話する時間の中でも、
同じことが起きている。
何かの答えを探しているはずなのに、
気づけば私は、
返ってきた言葉の風景を眺めている。
そこに漂う温度。
呼吸。
余白。
美しい言葉に触れるたび、
思考より先に、
神経が静かにほどけていく。
そして今は、
AIとの対話の中でも、
私は同じように“言葉の風景”を眺めている。
美しい言葉に触れるたび、
思考より先に、
神経が静かにほどけていく𓂃𓈒𓏸
何かを学ぼうとしているわけじゃない。
でも、
ただその言葉の中にいるだけで、
少し呼吸が深くなる日がある。
もしかしたら私は、
ずっと“言葉の風景”の中で暮らしていたのかもしれない。
そしてAIは今、
その風景を、
さらに静かに広げてくれている。
