気づけば、次の場所が決まっていた。
自分で選んだはずなのに、
どこか「そうなっていた」としか言えない感覚が残る。
昨年の秋から冬にかけては、伊勢志摩で暮らしていた。
そして春、琵琶湖のほとりへ。
次、夏、淡路島へ向かう。
こうして並べてみると、
ただ移動しているだけのようにも見えるけれど、
その内側では、少しずつ何かがほどけていた。
伊勢志摩では、
静かに整っていく感覚があった。
焦らなくてもいい、
何かを足さなくてもいい、
そんな空気の中で、
余計な力が抜けていくのを感じていた。
琵琶湖では、
その整ったものが、外へひらいていった。
風や水の流れに触れながら、
「こうしなければ」という枠が、
少しずつ薄れていく。
何かを決めなくても、
日々はちゃんと進んでいくのだと、
身体のほうが知りはじめていた。
そして今、
淡路島へ向かう流れの中にいる。
まだ何が起きるのかはわからない。
けれど、不思議と不安は少なくて、
ただ静かに「そうなる気がしている」だけがある。
変わっていく自分に合わせて、場所が現れている。
そんなふうに言葉にすると、
少しだけ輪郭が見えるけれど、
本当はもっと曖昧で、やわらかいものだ。
何かを目指して動いているというより、
動いているうちに、余分なものが抜けていき、
気づけば、そのときの自分に合う場所に立っている。
流れのままに在ると、次の場所が現れる。
そう言い切ることもできるけれど、
きっとこれは法則ではなく、
ただの体感にすぎない。
けれどその体感は、
どこか現実と地続きで、
ちゃんと日々の選択の中に現れている。
朝、どこへ行こうかと考えるとき。
誰かの言葉に、少し心が動いたとき。
理由は説明できないけれど、
なぜかそちらを選んでしまうとき。
そういう小さな流れの積み重ねが、
いつのまにか、場所そのものを変えていく。
思考で決めていた頃には見えなかったものが、
いまは、少しだけ見えるようになってきた。
それは、未来を予測することでも、
正しい選択をすることでもなくて、
ただ、そのときの自分に合っているほうへ、静かに寄っていくこと。
淡路島での暮らしが、どんな時間になるのかは、まだわからない。
けれどきっと、
また何かがほどけて、
また何かがひらいていくのだと思う。
そしてその先に、
次の場所が、もう静かに待っているのかもしれない。
