何も予定を決めずに、ただ流れに身をゆだねた一日だった。
ふとしたひらめきで訪れたのは、
比叡山延暦寺の流れをくむという、静かな佇まいのお蕎麦屋さん。
丁寧に打たれた蕎麦を口に運ぶたび、
味だけではない、何か“整ったもの”が身体に入ってくる感覚があった。
空間の静けさ、店の空気、人の所作。
そのすべてが、やわらかく調和していた。
あとから知ったのだけれど、
そのお店では今でも毎朝、般若心経を唱えながら、
世界平和を祈りつつ蕎麦を打っているのだという。
その一杯に宿っていたものの正体が、
すとんと腑に落ちた。
余白家として生きることを選びながらも、
私はときどき、「空っぽ」というものがわからなくなる。
何も考えないようにしようとすればするほど、
思考はにぎやかになり、
目の前を味わおうとすればするほど、
感じたことを言葉にしようとする自分が現れる。
静かにしたいのに、静かにならない。
空っぽにくつろぐって、なんだろう。
そんな問いを抱えたまま帰る道すがら、
思いがけず、満開の桜並木に出会った。
予定にはなかった景色。
けれど、その偶然が、やけにやさしく胸に広がった。
「ああ、これでいいんだ」
そう思えた瞬間、
何かを整えようとする力が、ふっと抜けた。
空っぽにくつろぐというのは、
何かを“しない状態”をつくることではないのかもしれない。
むしろ、
起きてくるすべてを、そのまま通していくこと。
抗わず、意味づけしすぎず、
ただ流れていくものを、流れていくままに。
そのとき、
あとから静かに訪れるものがある。
それが、「空(くう)」なのだと思う。
比叡山の僧たちが、日々の所作の中で
空や無を身につけていくように、
特別なことではなく、
暮らしのひとつひとつの中で整っていく在り方。
それは、どこか修行に似ている。
けれど、苦しさを伴うものではなく、
もっとやわらかく、自然に深まっていくもの。
だからこれはきっと、
「修行」でありながら、「遊び」でもある。
ベッドを整えることも、
食事を運ぶことも、
誰かのために空間を整えることも、
ほんの少し意識を変えるだけで、
すべてが“お行“になる。
そしてその中で、
自分自身も静かに整っていく。
空っぽにくつろぐという、静かな修行遊び。
それは、
何かになろうとしない時間の中で、
すでに満ちているものに気づいていく営みなのかもしれない。

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