琵琶湖での暮らしが始まって、まだ三日目。
伊勢で過ごした時間とは少し違う、
静かに包まれるような感覚の中で日々を過ごしています。
伊勢にいた頃は、
体調の調整のような出来事がいくつも起きました。
身体が揺れ動くような時間。
そのとき、私ははっきりとこう思いました。
「身体への絶対的な安心感がほしい」
それが、今の自分にとって
いちばん望んでいることだと感じたのです。
そして今、琵琶湖に来て、
まだ言葉にはしきれないけれど、
その感覚の入口のようなものを
掴みかけている気がしています。
ふと気づいたことがあります。
身体という存在は、
過去にも未来にも行けないということ。
思考は簡単に過去を思い出し、
未来を心配します。
けれど身体だけは違います。
身体はいつも、
“今ここ”にしか存在できない。
呼吸も、
足の動きも、
手の感覚も。
すべてが、今この瞬間の出来事です。
そう考えると、
ひとつの感覚が生まれてきました。
もし意識を、
身体の動きと一致させてみたらどうなるだろう。
歩くときは歩くことに。
手を動かすときはその動きに。
ただそれに意識を合わせる。
そんな小さな実験を、
ここ数日やってみています。
すると、不思議なことが起きます。
過去のことを考える時間も、
未来を想像する時間も、
自然と消えていくのです。
ただ、
今この瞬間の身体の動きだけがある。
そしてそのとき、
世界との境界が少しだけ薄くなる感覚があります。
歩いているとき。
足が地面に触れ、
身体が前へ進んでいく。
その動きに意識を合わせていると、
ただ流れの中にいるような感じになるのです。
そしてもう一つ。
琵琶湖を見るとき。
広くて、水平で、
どこまでも静かな水面。
それを眺めていると、
自分の内側も同じように静かに広がっていきます。
湖のエネルギーは、
何かを強く変えようとはしません。
ただ、包み込む。
急がせることなく、
ゆっくり混ざっていく。
そんな場所のように感じます。
そして今、
こんな考えが浮かび始めています。
身体というものは、もしかすると
「“今ここ”に戻るための拠りどころとして、神さまが与えてくれたもの」
なのかもしれません。
思考は過去へも未来へも行けます。
けれど身体は、
いつもこの瞬間にしか存在できない。
だからこそ、
身体の動きに意識を重ねていくと、
人は自然と
“今ここ”へ帰ってくる。
もしそうだとしたら。
身体と意識を一致させることは、
「今ここ」に戻るための、
いちばん自然で、
やさしい方法なのかもしれません。
まだ途中の感覚です。
でも、琵琶湖での日々の中で、
この身体感覚はもう少し深く掴めそうな気がしています。
湖の水平な景色を見ながら。
歩きながら。
今という一点に戻る練習を、
静かに続けてみようと思います。

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