「あなたが居て、あなたの人生を経験している」という見方。
そして、
「ぜんたいが、この瞬間にあなたという表現を起こしている」という見方。
後者の視点に触れたとき、
私は直感的に、こちらを掴みたいと思った。
人生が軽くなる、透明になる。
その感覚を知りたい、と。
読みながら、ふと浮かんだ言葉がある。
私は、灯台。
私は、観測者。
ああ、これだ。
そう思った。
でも、すぐに気づいた。
ここにもまだ、「私は」が主語として立っている。
以前よりは軽い。
けれど、まだ少し重い。
「私が観測している」
「私が灯台である」
そこには、まだ主体としての私がいる。
もしかすると、後者の視点は、
さらに一歩、溶けたところにあるのかもしれない。
私が観測者なのではなく、
観測が、ここで起きている。
私が灯台なのではなく、
光が、ここに現れている。
そう見た瞬間、
ほんのわずかに、何かが軽くなる。
主語が、薄くなる。
「私がどう在るか」から、
「ただ、気づきがある」へ。
過去でも未来でもなく、
この瞬間の気づきだけが中心になる。
意識の時間軸が短くなる、というのは、
こういうことなのかもしれない。
物語としての人生よりも、
今ここに起きている体験が、ただ在る。
灯台であろうとする私を、
そっと手放す。
すると、灯台は消えない。
むしろ、境界がやわらぎ、
海と空と光と、ひとつになる。
透明になるとは、
消えることではなく、
溶けることなのだと思う。
小さなアハ体験を、重ねていく。
「あ、いままた私を主語にしていた」
その気づきさえも、ただ起きている現象。
そんなふうに遊べるなら、
人生はきっと、どこまでも軽い。

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