どうして私は、「余白家」と名乗りたいと思ったんだろう。
その理由を、ちゃんとは言葉にできていなかった。
ただ、どこかでしっくりきていた。
そしてふと、気づいた。
私はきっと、
世界を、そして流れを、信頼したいのだと思う。
これまでの私は、
できるだけ正確に、丁寧に、伝えようとしてきた。
誤解されないように。
ちゃんと理解してもらえるように。
言葉を尽くして、すべてを埋めようとしていた。
でもその奥には、
どこかで「信頼しきれていない感覚」があったのかもしれない。
そんな中で、ひとつの感覚に出会った。
「全部わかってもらおうとしなくていい」
その選択は、どこか少し勇気がいったけれど、
同時に、ふっと力がゆるむものでもあった。
言葉を尽くさなくても、
届くものは、ちゃんと届いていく。
逆に、どれだけ説明しても、
届かないものは、届かないこともある。
それならば、
すべてを埋めようとするのではなく、
余白を残したまま、
そっと置いてみる。
その余白の中で、
誰かが自分の感覚を重ねたり、
それぞれのタイミングで、
何かを受け取っていくのかもしれない。
そう思えたとき、気づいた。
これは諦めではなく、
信頼なのだと。
読み手を信頼すること。
流れを信頼すること。
そして、世界そのものを信頼すること。
余白を残すということは、
世界を信頼しているということ。
すべてを説明しなくてもいい。
すべてを埋めなくてもいい。
その余白ごと、
きっと何かはつながっていく。
だから私は、
「余白家」として在りたいと思う。
すべてを整えきるのではなく、
少しの余白を残しながら。
その中に流れるものを、
静かに信じて。

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