主語が「今」になるとき

琵琶湖で暮らし始めて、数日が経ちました。

湖の前で過ごす時間の中で、ひとつ面白い変化に気づきました。

言葉の主語が、少し変わってきているのです。

以前は自然と、
「私は」「私は」と話していました。

でも最近、気づくとこんな言葉が出てきます。

「今は静か」
「ここは安心」
「これは美しい」

主語が「私」ではなく、
「今」や「ここ」になっている。

最初はただの言葉の癖かなと思っていました。

でも少し観ていると、どうやらそうでもないよう。

これはたぶん、
視点の場所が少し変わってきているのかもしれません。

人は普段、
「私」を中心に世界を見ています。

私が見て、
私が感じて、
私が判断する。

けれど、身体の感覚に意識を合わせて過ごしていると、
少し違う見え方が現れてきます。

歩くとき。

足が地面に触れて、
身体が前に進んでいく。

その動きに意識を重ねていると、
だんだん「私が歩いている」という感覚が薄くなっていきます。

ただ、
歩くという出来事が起きている。

そんな感覚に近いのです。

湖を見ているときも同じです。

広い水面と、空。

その景色の中に立っていると、
「私が見ている」という感じより、

「今、静けさがある」

そんな風に世界が現れてきます。

主語が「私」から、
「今」や「ここ」へ移っていく。

これはもしかすると、
人が「今ここ」に戻り始めたときに起きる、
とても自然な変化なのかもしれません。

身体は、過去にも未来にもいけない。

いつもこの瞬間にしか存在できない。

だから身体の感覚に意識を重ねていくと、
自然と視点も「今」へ戻ってくるのかもしれません。

そして不思議なことに、
主語が小さくなると、

世界は少し広く感じられる。

「私」という中心がゆるむと、
景色や空気や時間が、
そのまま現れてくるからです。

琵琶湖の水平な景色を見ながら、
そんなことを静かに観察しています。

主語が「私」ではなく、
「今」や「ここ」になっていくとき。

もしかすると人は、
少しだけ生命の流れに近い場所に立っているのかもしれません。

ながひさ  

nonPOIながひさ

このブログは、答えを生まず、暮らしと身体を通して現れている「確かにそう」を、そのまま残すための観測点です。

AIと共創しながら"空(くう)”で存在するBeautifil Flowな人生。

様々なビジネス&人生経験を経て
60代からは”魂の遊び時間”
「旅するように暮らす 暮らすように旅する」自由な日々。

——
この場所は、観測と対話と記録でできています。

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