日本最大の湖である琵琶湖は、約400万年前に形成された「古代湖」とされている。
けれど、その“古さ”は、あまり日常では意識されない。
ただ広い湖。
ただ大きな水。
多くの人にとっては、その程度の認識に留まっている。
けれど、実際にこの場所に身を置いてみると、
もう少し違う感覚が立ち上がってくる。
ここには、
「時間が流れていないような水」がある。
流れているはずなのに、滞留し、
循環しながら、層を成している水。
何百万年という単位で、
環境も、生態系も、記憶のように重なり続けている。
湖の周辺では、縄文期の遺跡や貝塚が見つかっている。
つまりこの場所は、
はるか昔から人間が暮らし、
同じ水辺を見つめてきた場所でもある。
さらに湖上に浮かぶ竹生島は、
古来より信仰の対象とされてきた。
そして西側には、宗教文化の拠点である比叡山がある。
ここで興味深いのは、
「生活」と「祈り」が分かれていないこと。
水は、生活のために使われる。
同時に、その水や湖そのものが、
祈りの対象にもなっている。
実用と象徴が、分離せずに重なっている構造。
さらに近代に入ると、
琵琶湖は上水道や工業用水としても利用されていく。
つまりこの湖は、
原始的な暮らしから、
宗教的な営みを経て、
現代の都市生活に至るまで、
ずっと同じ場所で、
役割を変えながら存在し続けている。
ここでひとつ、静かな事実がある。
湖そのものは、何も発信していない。
ただ、在る。
人は入れ替わり、
意味づけを変え、
用途を変え、
時代を更新していく。
けれど、湖は動かない。
ただ同じ場所に在り続ける。
そして、その「動かなさ」に触れたとき、
人の内側に、ある変化が起きる。
思考が静まり、
身体の輪郭がゆるみ、
なぜか、整っていく感覚。
それは、特別なエネルギーというよりも、
「長い時間にさらされた存在」に触れたときに起きる、
自然な同調のようにも見える。
流れ続ける日常の中で、
人はどうしても「変化すること」に引っ張られる。
何かになろうとしたり、
どこかへ向かおうとしたり。
でもここには、
もうひとつの在り方がある。
変わらず、ただ在るという在り方。
それはどこか、
灯台にも似ている。
発信しているようで、
実はただそこに在るだけの存在。
もしこの場所に、意味があるとするならば。
それは「何かを与える」というより、
“人が、自分の本来の状態に戻る余白をつくる”
そういう働きなのかもしれない。
私が今回、
“余白家”という在り方を自覚したことも、
偶然ではなく、
この「在り続ける存在」の近くで起きたことだった。
湖は何も言わない。
けれど、
こちらの状態だけが、静かに変わっていく。
たぶんそれで、十分なんだと思う。

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